トップページ > 連載 > 歴史に見るシリーズ > 【アパート暮らしと管理】~独立行政法人 都市再生機構 都市住宅技術研究所②~
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  • 2011年夏号

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~独立行政法人 都市再生機構 都市住宅技術研究所~
居住性能、耐震防災や耐久性、さらに省エネ・リサイクル、環境共生といった「まちとすまい」に関する先進的な調査研究や技術開発を行っている都市住宅技術研究所。今回は昭和30年代、戦災と都市への人口流入による住宅難解消のため設立された日本住宅公団が「公営、公団、公庫」という住宅政策の三本柱を元に、勤労者向けの住宅供給を開始したその歴史的変遷をめぐっていく。

同潤会が江戸川アパートを建設した4年後の昭和13年には鉄鋼工作建物建造許可制が始まり、その後、太平洋戦争を挟んだ約10年間は、集合住宅の建設はあまり行われなかった。

この間に、戦後普及した食寝分離のDK住宅様式の生みの親、西山卯三をはじめとする研究者により集合住宅に関する基礎的な研究は続けられ、「食寝分離」、「適正就寝の確保」などの新しい住宅に対する考えが確立した。戦後は420万戸の住宅不足の問題から昭和26年には公営住宅法が分布され、公営住宅の建設が本格化した。住宅金融公庫法により融資制度も整い昭和30年に日本住宅公団が発足。日本住宅公団は10年間で公営住宅30万戸の建設を目標に取り組んだ。

昭和30年代、戦後初期の集合住宅におけるテーマのひとつであった「食寝分離」に応えたのがダイニングキッチンの登場だ。台所の面積を広くし、テーブルを備え付けることでキッチンで食事をする新しい生活スタイルが出来上がった。ダイニングキッチン以外に2寝室を持つこのタイプは2DKと呼ばれ公団住宅の代名詞にもなった。昭和32年に建設された蓮根団地(東京都板橋区)の他、郊外に続々と建設された2DKの団地は、冷蔵庫を始めとする電化製品を備えた生活スタイルで「団地族」と呼ばれ、社会現象にもなった。

また、日本住宅公団は昭和32年に低層集合住宅の試作を行い、その後、主に郊外の住宅団地で低層集合住宅のテラスハウス(壁を接して建つ長屋形式の連続建て住宅)の建設も行った。昭和33年に入居が始まった多摩平団地テラスハウス(東京都日野市)は、低層であり、構造上の制約が少ないため、ブロック造を始め、鉄骨造の壁式やラーメン構造(※1)、プレキャスト工法(※2)、の先駆けとなるティルトアップ工法(※3)など、各種工法の模索が行われ建設された。建物の南向きを基本にして長さを変え、位置をずらしながら配置。住戸の庭から玄関脇の路地、団地内の通路を経て、公園や学校へと連なる構成によって、子供は成長に応じて生活圏を自然に広げることができた。

この時代から集合住宅の管理を自治会に任せることとなり、それが後に自主管理(管理組合)というスタイルを定着させるきっかけとなった。

※1ラーメン構造とは、柱や梁で建築物を支える構造で、材と材が接合する部分を変形しにくいように堅結した構造のこと
※2建築手法の一つ。コンクリートの建築物を作る際に、事前に形成されたコンクリート部材を工場生産しておき、その部材を建設現場に運び込んでつなぎ合わせる工法
※3建設現場でコンクリート板を製造し、クレーンで建て起こして組み立てる工法